与謝野晶子の叙景歌 中西 輝磨

歌壇で自然詠の衰退が問題にされて久しい。いかに自然詠を復活、再生させるかは歌壇のテーマだが、これといった答はない。
が、考えられる答えの一つに、単なる写生の叙景歌ではなく、いかに主幹的、個性的表現の自然詠を詠むかが鍵と考える。
その鍵は与謝野晶子が晩年、自然を主観的に詠んだ叙景歌にあるのではないかと思考した。  『心の遠景』は与謝野晶子の四十六歳から五十歳までの千五百首もの歌を収めた歌集である。本書ではそれらの歌に私なりの解説をこころみた。
 処女歌集『みだれ髪』に代表されるように、与謝野晶子といえば、恋愛の情熱を大胆に歌い上げるイメージが一般的である。
 しかし『心の遠景』には、晶子自身が自然を体感し、心の中から湧き出してくる喜びや悲しみが豊かに表現されている

  山の滝一ときなれど中空に自らの身を放つめでたさ

 古今、多数くの滝の歌が詠まれているが、「中空に自らの身を放つめでたさ」は、滝のもつすさまじいエネルギーによって自らを解放し、快感すら感じる様子を表現している。
 そこからは滝の描写という写実だけではなく、晶子自身が滝にのり移るというスケールの大きさ、ふところの深さが感じられる。
 その瑞々しい皮膚感覚や独創性は、今もなお少しも古びることなく読む人の心を惹きつけてやまない魅力にあふれている。
 晶子自身は『心の遠景』について、

 「わたしの最近の歌集である『心の遠景』は他の歌集の二冊分を収めたもので千五百首の歌がある。
 ……『心の遠景』は前期の『晶子短歌全集』全体よりも『草の夢』よりも、作者に取って最も大切な歌集である。
 若しわたくしが長生するならば斯くいふ今日の言葉に自ら冷汗を覚える日が無いとは限らないのであるが、とにかく小さいわたくしの作物として、今日は『心の遠景』を最上の物として考へてゐるのである」
(『現代短歌全集』後書き 昭和4年 改造社)

  と、述べているところの単独歌集として刊行した最後の自信に満ちた歌集である。
馬場あき子氏は、『心の遠景』を、「この時期の晶子は〈景〉にそのまま〈心〉を見、対象の含みもつ〈生〉の本質の寂しさを共有しようとする傾向を強くみせている」(『鑑賞与謝野晶子の秀歌』昭56・1 短歌新聞社 )と、評している。また松村由利子氏は、「『心の遠景』(一九二八年)は、寂寥とした思いに満ちた歌集である。旅の歌と並び、抽象性の高い歌が多いことが特徴だ」(『与謝野晶子』中公叢書 平21・2 中央公論新社) と評している。
 歌集は大正十三年八月以来の四十歳代の後半から五十代にさしかかってくる時期で、殆んどが自然詠を主体とした旅行詠であるが、歌は、単なる叙景歌ではなく、風物に託しての心情を表白した歌であり、円熟した歌風の展開が見られる。
 初期の作品だけが注目されているが、『心の遠景』からも学ぶ点は多々あると思う。

 歌集『心の遠景』には次のような記述がある。
歌集『心の遠景』(昭和三年六月十五日発行。定價二圓 二十銭。三七四頁四首組、天金。装幀木下杢太郎。)
表紙の装画は、名古屋の杢太郎の自宅の「庭のかなめ(・・・)も(・)ち(・)とどうだん(・・・・)の葉をていねいに写生」したもので、伊上凡骨彫刻による作。
晶子は本書の序文に、「此集の装幀は、特に木下杢太郎さんが筆を執つて下さいました。
勿論私の心では、久しい以前から、大きな兄の一人として尊敬してゐるのですが、木下さんは年から云つて私を姉のやうに親しくして下さるのです。
かたじけない事だと思ひます。」と謝辞を書いている。
歌集の表紙を開いて裏に、
 巴里に在る有嶋生馬先生に捧ぐ
と献辞がある。

有嶋生馬(いくま)を『広辞苑』で引くと、「洋画家・文学者・本名壬生(みぶ)馬(ま)。有島武郎は兄、里見ク(とん)は弟。横浜生まれ。
藤島武二に学び、渡欧。『白樺』同人となり、セザンヌ、未来派、キュビスムなどを紹介。(一八八二0一九七四)とある。有嶋と晶子の関係は分からないが、晶子の次男秀の嫁になった与謝野道子の著書『老いては子に従わず』に、晶子が病気で入院中、有嶋が見舞いに訪れた話が載っている。
面白いのでそれを次に引く。

「義母は愚痴はおっしゃらない方だし、ときによると、びっくりするようなはっきりした表現をなさるのね。
有嶋先生がいらしたときなんかも、病室にお入りになったとたんに『あら、生馬さん、ずいぶん白髪がふえましたね、ほとんど白髪におなりになって』って。
有嶋先生にっこりなさって、『お互いに』っておっしゃった。
義母は、ふつうの人間が思っても口にしないようなことでも、実にさらっとおっしゃるんです。」

と書いている。
 序文では、芥川龍之介にふれて、
 「芥川龍之介さんが『この次からは一一の歌に題を添へて下さい。
 読む者のために便利ですから』と云はれたので、『成るべくさう致します』とお答へしたのですが、気儘に書いた草稿が入りまじつて居て、自分ながら其の制作の時と順序とを思ひ出せないものが多いので、巳むを得ず今度も題を添へずに印刷しました。
 今は故人になられた芥川さんに対して甚だ済まない気がします。」と書いている。
序文は、この後、

「この五年間に、良人や友人に従ひ、私はいろいろの所へ短時日の旅行をしました。
近い所では、武蔵の金沢と氷川、相模の三崎と箱根、信濃の諏訪、軽井沢、碓氷、山田温泉、赤倉、野沢温泉、野尻湖、また日光、伊豆の熱海、遠い所では越後、佐渡、陸前の青根温泉、松島、羽後の十和田湖、陸奥の板柳、岩木山、弘前、浅虫、五戸、近江の石山、京都、宇治、大和の奈良、吉野、下野の那須など。
從つて此集には其等の旅中の作が多くまじつて居ます。」

とあって、五年の間に有力な地方の門弟の招請により日本各地を旅行し、多くの歌を作っている。序文の終りに、
  一九二八年五月 與謝野晶子
とある。一九二八年は昭和三年だが、和暦ではなく、西暦をこの時代に使っているのが新鮮、且つ国際的である。